日々の出来事を綴るblog
(兼、趣味の備忘録)
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今回読んだ本は、「
相剋の森」を読んだ際に、札幌で同居するフリー動物写真家の吉本憲司と北大農学部森林学科講師でヒグマ研の中心人物である小山田玲子という二人が登場するのですが、その二人が主人公の話です。
吉村が脱サラをし、動物写真家を目指し出したときに、北大のヒグマ研が行うテレメトリー法によるヒグマの行動追跡調査を取材することになり、小山田と出会う。
その10年程前に小山田が大学院生だった時、穴グマ猟で見つけた2頭の2歳の子グマ(ラムアンとイルシカと名づけた)を1年間飼育観察した後、放獣してしまった。
10年後、1頭は性格のおとなしい黒毛(ラムアン)、もう1頭は性格が獰猛な金毛(イルシカ)の成獣に成長していた。
そしてイルシカは人を襲う事になってしまった
初めはキャンプに来ていた大学生グループ4人の内、3人を殺してしまい、
次にテレメトリー調査用の罠で捕獲され放獣される際に、無知なTVクルーの愚行がきっかけとなり、ヒグマ研のメンバーの1人を襲い怪我をおわせてしまったのだ。
その際、イルシカはハンターに撃たれ手負いグマとなり、更に人を襲う危険性が高まってしまった。
そこで、イルシカを殺捕するための追跡が始まる。
その結果、イルシカだけでなくラムアンも殺捕される。
「相剋の森」を読んでいたこともあり、すぐに話の中に入り込むことが出来、楽しかったです。
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著:熊谷達也
作:ウエンカムイの爪
※・クマの性格も様々なようで
アイヌでは、性格が良いクマを「キムンカムイ」、悪いクマを「ウエンヤップ」という。
「ウエンヤップ」の中でも、人を食べたクマを「ウエンカムイ」という。
・ヒグマの個体数は、明治の開拓期には五千頭強いたと推測されるが、現在は二千頭程度らし
い。
・動物の追跡調査方法の一つにテレメトリー法があるが、アルゴス衛星を使いリアルタイムに追
跡する方法もある。
・吉本がヒグマ研のメンバーにするインタビューの部分だけでも、読み返したい。
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先日、「
間宮林蔵」を読み終わり、次は同作家の「羆嵐」を読んでみました。
何故かこの作品には、まったく読み辛さは感じず、すぐに話の中へ入ることが出来、あっという間に読み終わることが出来ました。
大正4年12月に北海道の天塩国苫前三毛別・六線沢の集落で日本獣害史上最大の惨事といわれる羆事件が実際に起こったのですが、それをモチーフにして書かれた小説です。
かつて北海道や樺太に入植された人々は、羆という問題をどの様に考え・対処していたのだろう?
現代とは比較にならないぐらい羆の生息頭数は多かった中で、質素な家屋に住み、武器にも恵まれていなかったはずなのに・・・
アイヌの人々との交流があれば、羆との付き合い方を教えてもらうことも出来たかもしれないが、そんな交流はなかったのかな?
恐ろしさを押し殺して生活していたのだろうか?
それとも、あまり考えないようにしていたのだろうか?
それにしても、アイヌの人々は逞しいな・・・凄すぎる。
自分が他の動物の食料になるかもしれない・・・という世界
圧倒的な恐怖の中に引きずり込まれた時に、生きようとする勇気・力・知恵が出るだろうか・・・?
そんな間も、無いのだろうか・・・
読んでいるうちに、色々と想像してしまい・・・怖かったです。
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著:吉村 昭
作:羆嵐
※・マタギの中には蝦夷に渡った方達がいたそうだが、ツキノワグマとは大きさや性格等が違う羆
を相手にした時、その違いに戸惑わなかったのだろうか?
・以前に利尻島を旅したとき、明治45年5月に北海道本島の天塩から直線距離にして19km
泳いで島に渡ってきた羆を漁師達が殺捕したという事件があったことを知りました。
羆の泳ぎの達者さに驚くと共に、漁師が羆を斧や棒を使い殺捕したという事実に驚いたことを
思い出しました。
・「羆嵐」は、その羆がやってきた天塩からオロロンラインを南下し、苫前から少し内陸側に入っ
た三毛別周辺が舞台となった話で、地図で確認すると、どちらかといえば沿岸部に近い山中
での事件だったようです。
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今日は好天に恵まれ、暖かい1日でしたね。
岡崎市と西尾市の境目に広田川が流れており、その川を新幹線が横切りトンネルに入る場所があります。
そのトンネルは羽角山という低山を貫くのですが、その麓に最明寺があります。
そのお寺から羽角山を周回するトレイルがあります。
良く踏まれたトレイルで、山頂からは北側に岡崎市・西側に西尾市を見渡すことが出来ます。
ここは時々散歩時に見かけていた小山なのですが、その中にこんな散歩コースがあったとは知りませんでした。
昼休みを利用して、散歩してきました。
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新幹線が突っ切る、羽角山(118m)です。(左写)
トレイルは歩きやすく、山頂は開けていました。(右写)
つづきはこちら
間宮林蔵を読んだ際に、渡辺崋山という名が出てきました。
渡辺崋山の在所は愛知県田原市にあり、晩年はここで幽居させられてしまったのでした。
現在、池ノ原公園内に幽居跡があり、近くには崋山神社もあります。
田原市には蔵王山があり、いつも桑谷山からの眺望で、竹島・大島・姫島の先に見える山がそれです。
蔵王山の山頂には大きな風車と展望台があり、360度のパノラマが楽しめます。
車でも上がれることから、昔から人気の低山です。
先日、散歩してきた様子をアップします。
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池ノ原公園越しの蔵王山(250、1m)です。(左写)
山頂からは360度の眺望が楽しめるため、大駐車場や展望台が整備されており、多くの人に親しまれている場所のようです。(右写)
つづきはこちら
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仕事から帰宅後、頑張ってやっと読み終えることが出来ました。
本来は、1月中に読もうと思って買った本なのですが、まったく話の中に入っていけずに、苦しかった・・・
「
戦艦武蔵」を読んだ時も、同様の読み進み辛さにまいっていたように思う。
たぶん、私のせっかちな性格が災いして、著者の文体に抵抗を感じていたのだと思います。
さっさと他の本に鞍替えするのも手なのですが、
貧乏性というか・・・
負けた気がするというか・・・
踏ん張ってみました。
一応、間宮林蔵について少し理解できた点と、途中で投げ出さずに読み切った点は、踏ん張った甲斐があったと思いたいです。
それにしても、疲れた。
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著:吉村 昭
作:間宮林蔵
昔、北海道の旅で宗谷岬を訪れた時、林蔵の凛々しい銅像があったな。
以前から、アイヌ・ニブヒ・ギリヤーク等の先住民が暮らす蝦夷や樺太に、和人がどの様に入り込みその土地を領土にしていったのか、興味がありました。
林蔵の業績にしても、多くは彼らの助けがあって初めて成し得た事だということだったようです。
彼らは、たいした見返りを求めずに林蔵の命がけの仕事に同行し、時に手伝い、時に彼を守ったようだが、何故そのような事が出来たのであろう?
・言うことを聞かないと、何をされるか分からないという恐怖から・・・
・和人からの見返りを期待して・・・
・自分達の生活に溶け込もうと努力していたから、仲間意識が・・・
・長老の指示で、嫌々仕方なく・・・
・必要とされる喜びを感じた・・・
・厳しい環境下では助け合うことが基本で、困っている人を見放せない・・・
・先々の和人との関係を良くし、豊かで安全な生活を望んでいた・・・
・粗暴な山丹人の行動から、和人の力を借りて逃れるため・・・
等など、考えたら限が無い
理由は様々なのだろうが、give and take という価値観以外にも大切にしていたことがあったのだろうと感じました。
※間宮林蔵
百姓の生まれながら、役人となった
鎖国時代にもかかわらず、樺太が東韃靼とは繋がらず、島であることを確認した
東韃靼はロシアの支配下ではなく、清の支配下にあったことも確認
後に、伊能忠敬からも測量の技術を学び、蝦夷の測量に尽力した
役人として隠密に行動をし、諸外国からの船の動向等、情報を集めた
シーボルトとは面識が無かったようだが、密告者と思われていたらしい
そんなシーボルトが、世界地図上に間宮海峡と紹介した
渡辺崋山や高野長英らとも面識があり、影響しあっていたようだ
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今日は、清々しい良いお天気なので、昼休みにいつもの公園へ行って来ました。
公園内には葵梅林があり、赤・ピンク・白の花が咲き出しており、甘い香りが漂っていて、心地良く散歩できますヨ~
風は少し冷たいけど、この位の方が空気が澄んで、花も鮮やかに見えるので好きです。
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だいぶ開花量が増えて、華やかになってきた南公園です。
つづきはこちら
下の浅間山へは、引佐町方面から上がってみました。
R257→R68→R303(新城引佐線)沿いの10号カーブ付近から、陣座峠~474mピークを通る稜線の中間点を目指して登りました。
10号カーブ付近から登山道があり、地図にも記載されているのですが、今回はその横から延びる林道を辿り、林道終点からは稜線上のトレイルを目指してみました。
474mピークの前後は広葉樹と笹が多く、冬の今の時期は明るい稜線歩きを楽しめました。
(西に富幕山、北西に常寒山?や舟着山?を樹間から覗くことが出来ました。)
しかし稜線歩きでも、この辺りは全体的に眺望はあまり楽しめない事が分かりました。
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引佐町方面から見た、今回歩いた稜線です。
474mピーク~黒松峠~下の浅間山(479m)の稜線からも、見晴らしの良い場所は見当たりませんでした・・・残念
しかし、陣座峠~上の浅間山まで、快適な稜線歩きが可能であることが分かりました。
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